神奈川県相模原市の津久井やまゆり園で45人を殺傷した、植松聖被告の裁判が始まるということで、ここ何日かニュースでも取り上げられることが多かったですね。もう3年以上もたってしまったのか、と驚きました。
人間の生産性は一生同じではない
植松聖という人物は、生産性がない人や意思疎通ができない人は、存在する価値がないという内容のことをいっていました。だから19人が命を失うことになりましたが、人間は誰でも生産性を失う可能性、意思疎通ができなくなる可能性があります。
年齢を重ねた、不況で職を失った、病気になって働くことが難しくなった、などは誰でも経験するし、経験がなくてもこれから経験するかもしれません。私の父は49歳という世間では働き盛りの年齢で、脳卒中の発作を起こして、意識不明になりました。目覚めたときには右半身はまったく感覚がなくなり、言葉も失われていました。
本人はとても辛かったでしょうが、家族もまた、まったく変わってしまった父の姿を受け入れられず、これから家族は、家計はどうなるのかという不安で辛い思いをしました。つまり父は生産性を失い、意思疎通もできなくなってしまいました。
生産性がなくても価値がある人がいる
でも、ずっと一緒にいることで、意思疎通ができないと思っていた父が、実は意思表示をしていることに気が付きました。少しずつでしたが、自分でできることも増え、家族で喜びました。
父が病気になってから、話したことでいくつも心に残っていることがあります。それは聞く気持ちがなければ、きっと何をいっているか理解できなかったことですが(父が元気だった頃には、わからなかったと思います)、父が生きていなければ聞けなかった貴重な話です。私はそれが聞けてよかったと思っています。
やまゆり園で家族を亡くした人は、そんな機会や喜びを無理やり奪われてしまった、と考えると気の毒でたまりません。家族との楽しい時間を奪う権利なんて、本当は誰にもあるはずがありません。
やまゆり園のような施設で家族と離れて暮らすことにいろいろな意見を持つ人もいるでしょうが、私は家族の負担を減らすだけが目的ではないと思います。障害を持っている本人にとっても大切なことだと私は考えます。面倒を見ている家族が亡くなっても、生きていくためには他人とも生活できることが必要です。みなで集まって生活しているのは、心強いはずだったのに、植松聖被告のような人間には、1カ所に集まって生活していたことが、好都合になってしまいました。
私の生産性もなくなる日が近い
私は現在55歳ですが、少しずつ自動車を運転するときの、反射が鈍くなったり、五十肩で腕が上がらなくなったりして、これから先はいろいろなことができなくなるんだと感じています。家事がおぼつかなくなったら、私の生産性は0(専業主婦だから…)ということになります。
そして目が悪くなり(強度近視です)、耳が遠くなって(突発性難聴を2回もしています)意思疎通ができなくなる日がくるかもしれません。障害があるか健常であるかはまったく別のことではなく、つながっているんだと自分のこととして実感できるようになりました。障害を持っている人が安心して生活できる環境は、結局自分が安心できることにつながります。
父のことと自分のこと、両方を考えると、やまゆり園で多くの人が亡くなったのが、本当に怖いことだと実感できます。
生産性がない人、意思疎通ができない人を排除する考えは結局自分自身を追い詰めることになるでしょう。植松聖被告はそのことに気が付いているのでしょうか。自分が年をとったときに、自分の首を締めることになるはずです。ここまで考えると、被告のこともかわいそうに思えてきました。
嫌な事件でしたが、それもニュースで報道されていなかったら、思い出すこともありませんでした。そんな自分のことも含めて、年の始めから、心が重くなってしまいました。